青島広志&萩尾望都の「少女マンガ音楽史!」レポート

青島広志&萩尾望都の「少女マンガ音楽史!」
「青島広志&萩尾望都の「少女マンガ音楽史!」」フライヤー

日時:2023年9月23日(土・祝)14:30開演、17:00頃終演
会場:神奈川県民ホール小ホール

○曲目
1.アシスト・ネコ(萩尾望都作詞・作曲)‥横山美奈(s)、小野勉(t)、小山啓久(v)、青島広志(p)
2.アシスト・ワンコ(青島広志編詞・編曲)‥小野努(t)、横山美奈(s)、阪田宏彰(c)、青島広志(p)
3.少女ろまん~曇り日に/風景/初夏(萩尾望都詩、青島広志作曲)‥横山美奈(s)、青島広志(p)
4.月夜のバイオリン(青島広志作曲)‥小野勉(朗読)、小山啓久(v)、青島広志(p)
5.柳の木(青島広志作曲)‥小山啓久(v)、阪田宏彰(c)、青島広志(p)

○出演
青島広志(ピアノ)
横山美奈(ソプラノ)
小野勉(テノール)
小山啓久(ヴァイオリン)
阪田宏彰(チェロ)
萩尾望都

作曲家、ピアニスト、指揮者として長らく活躍されている青島広志先生が開催するコンサートで萩尾望都先生の曲を取り上げるという企画が2022年8月27日に行われることになりました。が、この時は萩尾先生の急な体調不良により出演見合わせ。コンサート自体は笹生那実さんや飯田耕一郎さんが登壇されて実施されました。(昨年のコンサート

今年、2023年になって、この企画が再度浮上してきて、2023年9月23日(土・祝)に、昨年と同じ神奈川県民ホールで開催されました。チケットがすぐに売り切れたため、夜の第二部の公演も企画されましたが、こちらには萩尾先生が登壇されず、かわりに「私の少女マンガ講義」の編者である矢内裕子さんが登場されることになりました。

コンサートは萩尾先生の作詞作曲された曲、萩尾先生の作品からインスパイアされて青島先生がつくられた曲が演奏され、合間合間に青島先生から萩尾先生へ質問されるスタイルで萩尾先生のお話がうかがえました。その中から私が印象に残ったお話をいくつか、プログラムの流れにそってレポートします。青島先生のお話の量がすごいので、とてもメモが追いつかず、ほんの一部になってしまうことをご容赦ください。

オープニング

萩尾先生と青島先生が初めて会ったのは、諸星大二郎先生の「瓜子姫とアマンジャク」を青島先生がオペラ化した「うりこひめの夜」という舞台が2022年3月8~10日に池袋あうるすぽっとで開催されました。その舞台を萩尾先生が観劇されたときだそうです。
「うりこひめの夜」
その15年ほど前に水野英子先生のバレエの衣装の展示を天王洲アイルでやったことがあって、それを故・和田慎二先生と3人で並んで見ていたことがあるけれど、そのときには言ってもわからないだろうと思って名乗りませんでした、とのお話。

アシストネコ

LP「エトランゼ」

「アシスト・ネコ」は漫画家の“シュラバ”のお話です。LP「エトランゼ」に収録されている曲です。「エトランゼ」は全曲萩尾先生の作詞・作曲・歌唱というレコードで、1979年に出されたものです。
LP「エトランゼ」

青島先生からの「萩尾先生は“シュラバ”は経験がありますか?」という質問の回答。
「締切には“1.嘘の締切 2.本当の締切 3.間に合わない締切 4.どうしてくれるんだの締切”がある。最初の頃は原稿をあげてから編集部が掲載を決めるので、わりと楽だった。上京し原稿を編集部に持っていったときに締切前の漫画家に手伝いに行ってくれと言われることがあった。明日までに仕上げないとならない原稿を手伝いに行ったことがあって、それは“シュラバ”でした。

“シュラバ”はたいてい自宅でやるけれど、時には“カンヅメ”でやる。旅館やホテルに閉じ込められて、原稿があがるまで一歩も出られない。自宅と違い資料はないけれど、自分の家でやるときはご飯の手配とかがあるので、三食黙っていても出てくるところがいい。」

「エトランゼ」のCD化について聞かれた萩尾先生。「昔のことなので。なかったことに‥」とのことでした。

この後、「アシスト・ネコ」を演奏。最初のナレーションを1回目はソプラノの横山さんが、2回目は萩尾先生が読みました。

少女マンガ家がネコを飼うのは、一説には、
修羅場にアシスタントをさせるためだともいいます。

今日で徹夜は三日三晩
原稿はマッ白 頭はスクランプル
編集はマッ青 電話は鳴り響く
「とにかく早く仕上げて下さい
とっくに〆切すぎています
タイムリミット 明日朝六時
出来なかったら僕はクビです
何でもいいから仕上げて下さい」

ヤレ!点打てベタぬれ アシスト・ネコ
トーンに消しゴム アシスト・ネコ
ひろって育てた 恩を今こそ
愛する主人に 返す時

今日で断食 三日三晩
オナカは水腹 コーヒーと紅茶
夜中の三時 電話は鳴り響く

「眠るな泣くなトイレに行くな
原稿上がれば死んでもいいから
この夜は修羅じゃ
すでに正気のタガははずれた 自制心は消失
笑い出したら遠々(※歌詞カードママ)止まらない

ヤレ!シッポでベタぬれ アシスト・ネコ
おひげでテンテン アシスト・ネコ
メシたけ肩もめ アシスト・ネコ
さいごのひとコマ ごくろうさま

アーア
さぁねましょ おやすみネコちゃん
次の修羅まで

「アシスト・ネコ」萩尾望都「エトランゼ」より
「アシストネコ(附録 アシスト・ワンコ)」

【譜面】
アシスト・ネコ(附録 アシスト・ワンコ)
作曲:萩尾望都/編曲:青島広志
(これだけ会場で購入しました。すぐに売り切れましたが、上記リンクから購入できるかと)

この後、「アシスト・ワンコ」という曲が演奏されました。こちらは青島先生が替え歌でつくった詞で、テレビ曲に曲を提出する締切に追われる作曲家とそれを助ける犬のお話でした。

萩尾先生のデビュー前後のお話

別マのまんがスクール、萩尾先生はデビュー前に2作入選しています。1968年「ミニレディが恋をしたら」「青空と王子さま」。金賞入選作品は誌面に載るのが通例だったけれど、萩尾先生のだけ載りませんでした。それで萩尾先生は、『マーガレット』では採用してもらえないらしいと思ってしまった。でも不採用ということではなく「もっと仕上げてくるのかと思った」と白泉社の小長井さんの自伝にあったそうです(未確認)。

それで次に講談社に。大牟田に住んでいた高校生の平田真貴子さんがすでに『なかよし』でデビューされていて、つてをたどって友達になっていました。平田さんは高校卒業後お姉さんと上京していたので、講談社の人を紹介してくれないかと頼みました。

「『なかよし』は小学校低学年の人が読む雑誌で、そこに向けて最初のケーキを焼く話は描かれたのですか?」という青島先生の問いに萩尾先生は「私はあまり読者層のことを考えていなかった。自分ではどんな本(雑誌)も読んでいたので、本に違いがあるという意識ができなかった。『なかよし』の編集さんが“かわいい子が出てくるものを描いて”と言ったので、描いて送りました」とのこと。

「講談社『なかよし』には次々ネームをつくって送ったけれど、読者層が違ったので、キャンセルされてしまった。それで描きかけの原稿がたくさんあった。いろいろあって竹宮先生のアシスタントに行ったときに「萩尾さんは東京の方に出てこないんですか?」と聞かれて「こんなにボツ続きでは生活ができないから、まだ出てこれないかな」と相談していたんです。そうしたら、ボツになった原稿を小学館の山本順也さんにとりつぎましょうか。新しい本(雑誌)だから、作家を探してるからいいかもしれないと。自分のところに送ってくれたら、山本さんに渡してあげますと。それで原稿を山本さんが読んでくださって「全部買ってやるよ」と言われました。」

岡田史子さんの話

ガラス玉 岡田史子
「ガラス玉」岡田史子 朝日ソノラマ 1976

青島先生が通っていた中学校のすぐ下にある洋紙店がありました。その会社に岡田史子先生が事務員として入られた。普通の仕事のときもマンガを描いていていいからということになっていた。青島先生は学校の帰りに「勉強してくる」と言って、そこに立ち寄っていました。その頃、萩尾先生と何度かお目にかかったという話を聞いていましたとお話されました。青島先生は「まんだらけZENBU」No.4のp288に「むしろ、弟として」という岡田史子先生との交流について寄稿されています。

青島先生が「いろいろあって岡田先生が漫画家をやめていらした時、萩尾先生が岡田先生の故郷である北海道の静内にいらしてくださったということを手紙でうかがいました」と言うと「山本順也さんと一緒に静内に訪ねて行きました。」と萩尾先生。青島先生「そこで山本順也さんは岡田先生に何か描けとおっしゃった。1978年「ダンス・パーティ」を描いて再デビューした。そのあたりからまたお会いするようになりました。」

萩尾先生は「岡田先生はすごい才能がある方なので、このままではもったいないなと思っていた。岡田さんのような当時の少女マンガのジャンルから離れたものを描かれていくのはとても難しいことだと思っていた。」

ここで青島先生がホワイトボードに岡田先生ふうの絵を描かれます。岡田先生が毎回毎回絵柄を変えるので「なんでそういうことをするのですか?」と聞いたら「同じ絵を描いてると、私つまんなくなっちゃうから」と岡田先生がおっしゃったと。

萩尾先生は岡田先生の「ガラス玉」にあとがきを書きました。そこに「ページが1枚余っちゃうんだけど、どうしたらいい?」と聞いたら、「それは見開きにしてしまえばいいのよ」と言った」という話が書かれています。岡田先生の「墓地へゆく道」で女の子が汽車にひかれる夢を見ている。彼女が目覚めたときのシーンが見開きの一コマになっていました。

「萩尾先生が岡田先生の作品に影響を受けたところはありますか?」との質問に「マンガって本当にいろいろなことができるんだなという点では影響を受けた」との回答。

銀の三角

「銀の三角」白泉社文庫 

「「銀の三角」という作品は何度読んでもどういう意味かわからない作品なのですが、あれに音楽のことがいっぱい出てくる。ああいうものは思いつきでしょうか?または調べて出てくるのでしょうか?あれは中近東かインドの音楽のような感じですが、そういうものに興味がありましたか?」という問いに「興味がありました。武蔵野音大に楽器の博物館(楽器ミュージアム)があって、そこに見たこともないような楽器がありました。もっていたカメラで撮影しました。その中から好きな写真を壁に貼って眺めているうちに、この楽器を使って何か出来ないかな。どんな音が出るんだろう?どこの国の楽器だろう?と考えました。」との回答。
武蔵野音楽大学楽器ミュージアム

少女ろまん

萩尾先生の「少女ろまん」は『プリンセス』の1977年3月号~8月号に掲載されたイラスト・ポエムです。→「少女ろまん」

この頃、萩尾先生はこのように詩とイラストのセットの作品をたくさん描かれていました。『ペーパームーン』に立原道造の詩にイラストをつけられたりされました。一連の作品は「銀の船と青い海」(河出文庫)に収録されています。6編の作品のうち「曇り日に」「風景」「初夏」の3編を取り上げて、青島先生が曲をつけられました。

「銀の船と青い海」(河出文庫)

青島先生からの「「少女ろまん」という作品は絵を見ると大正時代のようなので、それを想定していたのでしょうか?」という質問に、萩尾先生は「その頃は時代の知識はなく、少女の写真か何かを見て、この子が出てくる絵が描きたいと思って描いた作品だと思います」とお答えになりました。

青島先生は萩尾先生の詩作品には「なんとかでしょう」という言葉がすごく多い。中原中也の「湖上」という詩があるけれど、あれも「でしょう」が多い。もしかしたら中原中也に影響を受けたりしたのかと聴かれました。萩尾先生は「この頃読んでいたから、影響はあったかと思います。」とおっしゃいましたが、でも「少女ろまん」に“○○しましょう”の意味での“しょう”は出てこないんですよね。「どうしよう」の意味だと思うんですが。

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。

中原中也「湖上」より

あなたがこんな曇り日に
帰ってきたらなんとしょう
わたしは とっても 嬉しいが

日だまりの風も 影も
新芽の光も花も笑いもない
空気は淀んで水を含み
風は はたとも吹かず
長い影もささぬ

こんな静かな曇りの午後に
あなたが帰ってきたら なんとしょう
わたしはとても 嬉しいが

萩尾望都「少女ろまん」から「曇り日に」より

続いて、青島先生が「「風景」という作品に「春よ訪え(たずねえ)」という言葉があったけれど、これは少女の凶悪さみたいなものを感じる。春に「早く来なさい!」と命じているところが素敵だと思ったのだけれど、天災とか気候のことを自分で支配できるような感覚をもつというのは宮沢賢治のよう。次の「初夏」に「タイサンボク」や「鉄道せんろが東方へのびる」といった言葉が出てくるけれど、これは立原道造のようだ」というお話。

「日本歌曲を書く人はこの3人の詩に必ず曲をつける。自分は学生の頃に立原道造のものにはつけたことがある。萩尾先生の詩に20代で出会って書けていたら、もっと華やかな曲が出来たんじゃないかと思うけれど、もう68歳なので、くすんでしまった。歌い手さんの力で輝かせてもらいましょう」とおっしゃって演奏に入りました。

【譜面】
萩尾望都の詩「少女ろまん」より 曇り日に・風景・初夏
作曲:青島広志
ソプラノ&ピアノ

月夜のバイオリン

「月夜のバイオリン―萩尾望都童話の世界」
オリオン出版 1976.7.15

「月夜のバイオリン」はオリオン出版のものも新書館のもの現在は絶版ですが、「少女ろまん」と同じく「銀の船と青い海」に収録されています。文庫だけでなく、単行本の方にも収録されています。
「銀の船と青い海」(河出書房新社)
「銀の船と青い海」(河出文庫)

「月夜のバイオリン」は萩尾先生のお父様が戦争中に南方戦線の方へ行ってらして、お父様から聞いた話をもとにつくったものだそうです。結婚を約束した婚約者がいる青年が徴兵され、南方戦線に向かいます。インドでバイオリンを手に入れ、どの地に赴いてもバイオリンを弾いていた青年が終戦を迎え‥というお話。本公演のプログラムには「月夜のバイオリン」の全文が書かれています。昨年は演奏されていないので、今年のこのコンサートが初演だそうです。全文ではなく抜粋ですが「月夜のバイオリン」の文をテノールの小野勉さんが朗読し、ヴァイオリンとピアノの演奏が入ります。

演奏が終わって萩尾先生が「今これを聴いてあらためて、父や母にも青春の日々があったのだなということをすごく感じました。」と感想をお話されました。

【譜面】
萩尾望都の童話による「月夜のバイオリン」朗読とバイオリン、ピアノのための
作曲:青島広志
朗読、ヴァイオリン&ピアノ

柳の木

「柳の木」雑誌掲載時扉絵

「柳の木」は「山へ行く」に収録されている短編です。実験的な作品で、国内外を問わず、非常に評価が高いです。大英博物館のマンガ展でも全ページ展示されました。

ここで、青島先生にエスコートされて萩尾先生は壇上から降り、客席に座られました。何故だろうと思ったら、ステージの左右の壁に曲の進行に合わせて「柳の木」の原稿が投影されました。

青島先生から作品の紹介があります。
「「柳の木」は萩尾先生の20ページという短い作品ですが、代表作と言っていいのだろうと思っています。「柳の木」という題名を見ただけで、これは幽霊の話だろうと思いました。そして3ページ目くらいで幽霊だとわかりました。他のところはベタが使われているのに、このお母さんらしき人にはベタが使われていない。また、子供は育っていくのに、このお母さんは歳をとらずに美しいまま。時々子供が降りてきたりするところがあります。途中で犬を連れた歳をとったお父さん(子供の祖父らしい)がくるところがあるが、その犬が帰るときにこっちを向いてお母さんを見ている。すべて情景描写が心理描写になっている、本当にいい絵だと思います。これに音は要らないという話もあるし、確かにそれはそう思うのですが、音楽家としてはなんとかこれに食いついていきたいと思いました。それで、諸星先生のオペラのときに萩尾先生に「これに音をつけてみたい」と申し上げたところ、そこで即答してくださって。そこに出版関係者もいらっしゃったので、先生がよいとおっしゃってるならと言っていただき、そこから半年でこれを書きました。時間としては7分程です。」

歌手のお二人とヴァイオリンとチェロのお二人が登壇されました。歌手の方はお母さんの方は歌も台詞もありません。息子さんは台詞がありました。ピアノとヴァイオリンとチェロの3人で演奏された曲です。

私は生演奏つきの古い無声映画の上映会に行ったことがあるのですが、そんな感じを思い出しました。作品の流れ通りに四季、年月が流れていく映像とともに音楽が奏でられます。最後、息子が降りてきて台詞を言います。「お母さん」と最後に呼びかけて演奏が終わるのですが、叙情性豊かな曲調に相まって、少しうるっときました。演奏が終わって、シンと静まりかえり、客席からすぐには拍手が出ないほどでした。お隣の方、ハンカチで涙を拭っていました。

【譜面】
萩尾望都の漫画による「柳の木」
作曲:青島広志
ヴァイオリン、チェロ&ピアノ

エンディング

「この作品を書かせてくださって、本当に嬉しく思っております」と青島先生が言うと、萩尾先生は「書いてくださり、本当にありがとうございます。」と返します。

青島先生「萩尾先生がこのように、この世の中にいらっしゃることはわかりました。私は漫画家の先生というのは、違う世界にいらっしゃるのかと思っていました。私はいい読者とは言えませんが、これからも私の敬愛する先生の本がおいてあってどこに何があるかわからないくらいになっています。どんな小さな作品でも常にどこかで必ず読めるように、出版社をたきつけてください。それが私の心からの願いです。」

青島先生、最後のご挨拶のこれ、全作品を収録した全集を出して欲しいっていうことですよね。私もそう思います!

青島先生の「萩尾先生はこれからシュラバに向かいます。」という言葉で、萩尾先生が最後の献奏とともに去られました。その後、歌手と演奏者の方たちも拍手で送りました。青島先生はじめ、出演者の皆様、どうもありがとうございました。素晴らしい演奏会でした。

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