萩尾望都SF原画展大阪 萩尾望都トークショー・レポート

萩尾望都SF原画展大阪 トークショーの壇上

萩尾望都SF原画展 大阪会場 萩尾望都トークショー
日時:2022年9月18日(日) 14:00~16:00
会場:あべのハルカス 25階 会議室
出演:萩尾望都、小池修一郎

「萩尾望都SF原画展」ラストを飾る大阪会場でのトークショー。お相手となった小池修一郎先生は宝塚歌劇団の演出家として萩尾先生とは長いお付き合いをされている方です。宝塚歌劇団宝塚大劇場も近い大阪での開催となり、宝塚ファンも多いため、たいへんな数の応募者となったようです。400名の当選者の中に入ることができ、幸運でした。

会場窓からの風景

会場となったあべのハルカス25階会議室への行き方ですが、簡単ではありませんでした。
あべのハルカス貸会議室への行き方
天王寺駅から行く場合は比較的わかりやすかったのですが(近鉄百貨店地下1階からのシャトルエレベーターに乗って17階、そこで乗り換えて25階)、原画展会場がウィング館からタワー館へまず移動。トークショー開催前はエレベーターが混んでいる時間帯でしたのでエスカレーターで17階にあがり、そこで乗り換えるという手間がかかりました。が、25階の会場は阿倍野の街並みが一望できるたいへん眺望の良い場所でした。
司会の甲南女子大学教授・増田のぞみ先生は神戸会場での森見登美彦先生との対談でも司会も担当されていました。

萩尾望都SF原画展について

萩尾望都SF原画展は「萩尾望都SFアートワークス」(河出書房新社)の刊行をきっかけに2016年4月に開始されました。全国11箇所をまわり、この大阪でファイナルを迎えます。2016年はちょうど「ポーの一族」の連載が始まった年です。この原画展ももっと早く終わる予定だったのですが、間にコロナが入ったためお休みになって、2022年春に再開、そしてこの大阪会場が最後となります。

この大阪会場から新しい原画が展示されています。「百億の昼と千億の夜」の完全版が刊行されたので、原稿を全部見直して、トーンの貼り直しやネームのミスを修正しました。その中でブッダの耳が福耳になっていないところがあるのがずっと気になっていて、修正し直したそうです。
萩尾望都SF原画展大阪会場のレポート

「百億の昼と千億の夜」

萩尾先生:阿修羅王が大好き。小説を読んだときにステキ過ぎて、秋田書店の人に会ってどんなに阿修羅王がステキかという話をしていたら、その編集さんが光瀬先生のお知り合いで聞いてみますと言われた。こういうチャンスってきた時にキャッチしないとどこかに行ってしまうと後先考えずに「お願いします」と言ってしまった。

小池先生:カレー屋にあった『週刊少年チャンピオン』に載っているのに気付き、後に文庫版で読んだ。萩尾先生が少女マンガとして描かれたものに比べても濃いという印象がある。小説も読んだが、自分の読解力のなさからか、風景が思い浮かばないことが多く、抽象的で、概念のあり方について、宗教上のすごい人たちが出てきて、立体的に像を結びにくい。でも先にマンガを読んでいたので理解できたところがある。
どんなすごい景色を見て文章に書こうとしても、一枚の写真の説得力になかなかかなわない。萩尾先生がマンガにすることで、難しい概念が深みや奥行きを増す。

萩尾先生と小池先生の関わりについて

お二人の出会いについて

小池先生が萩尾先生の存在を知ったのは大学生のとき。親しかった早稲田大学映画研究会の女性から聞いた。映画「悲しみの天使(寄宿舎)」の話から萩尾先生の話になった。その後、演劇研究会の女性に萩尾先生のことを聞いたら、「ポーの一族」の単行本が出たと教えてくれた。ちょうど出始めた頃だった。

子供の頃、家の隣に5人姉妹が住んでいて自分のことをかわいがってくれた。その家にあった小学生から成人女性に至るまでの雑誌があって「映画の友」「女学生の友」「りぼん」「宝塚グラフ」などを読んでいたが、それ以後少女マンガと縁が切れていた。大学生になって「ポーの一族」を読んで腰を抜かし、萩尾先生の作品を追いかけて読むようになった。その2年後くらいに大学を卒業したら舞台の仕事をやろうと思って宝塚歌劇団を受けて受かって入った。その時「何がやりたいのか」と聞かれたので、ちょうど「ベルサイユのばら」で宝塚が盛り返したところだったので、「ポーの一族」と「華麗なるギャッツビー」の2本をやりたいと思った。

エドガーに寿ひずるさんがいいかなと思ったが、1970年代の宝塚は170cmあれば巨女扱い。エドガーとアランが170cmあるとしたら男爵はどうするんだ、など考えて諦めた。当時は作品数もそうたくさんやっていなかったので、助手を10年やったら演出できるかもしれないというような状況だった。入団して8年経ったとき(1985年)に帝国ホテルの喫茶店で偶然萩尾先生にお会いした。「悲しみのコルドバ」の新人公演の演出をしていたときだった。いきなり挨拶してしまい、びっくりされたかと。「自分は宝塚の演出助手で将来演出家を目指しているのですが「ポーの一族」をいつかやらせていただきたい」とお願いした。33年後にかなった。

「キュルトヘンの帽子」

1985年に上演された舞台「キュルトヘンの帽子」のお話。萩尾先生が西武子供向けミュージカルの脚本を依頼され、グリム童話の「キュルトヘンの帽子」を脚本に起こした。脚本を書くのは初めてだったので誰かに見てもらいたいと思った。以前宝塚の演出家の方に名刺をもらったので、この方に観てもらったらどうだろうと思って送った。

小池先生が受けとったそれは原稿用紙ではなく、白い紙に絵と文章が入り交じって書かれていて、頭に浮かんだイメージをどんどん描いて行かれてるのだと思うけれど、正直よくわからなかった。厚みがあって、あまりに多くて落としてしまった。ページが書いてないので前後がわからなくなり復元できずますますわからなくなり、何とお答えしていいかわからなくなってちゃんと答えてないと思う。多分どこかに保管されていると思うので、見つかったら送ります。

萩尾先生がこの「キュルトヘンの帽子」について発言されるのは非常に珍しいと思います。萩尾先生によると、いろいろとアクシデントがあったようです。
「小林聡美さんが少年役で、妖精のキュルトヘン役をやったのが川島なお美さんで、舞台は初めて。川島さんは一生懸命舞台に立ってるけど、どこかに行ってしまって、舞台上で会話がうまく成立していない。演出上の問題があって、一応ミュージカルで書いたのだけど、音楽を入れるか入れないか、どこで入れるかでもめていた。歌付き芝居になっていて、サウンド・オブ・ミュージックというのには遠いところにいた。演出の小林裕さん(文学座)は文学的にやろうとして、音楽担当はミュージカルをやろうとして軋轢があった。」

「マダム鶴子の優雅な正月」

小林裕さんと言えばその前にお正月の本多劇場でやった「マダム鶴子の優雅な正月」の演出をされていて、小池先生はその舞台を見に行ったそうです。舞台の内容は、楳図かずお先生を主役にして、萩尾先生の役はエリザベス女王。美内すずえ先生がピーターパンの格好をしていた。この人たちが描いたものを読んでいいのだろうか、というか、みんなが恥ずかしげもなくやっているところが凄かった。次々と寸劇をやるんだけど、最終的にそれは養老院の年末忘年会の出し物だったというオチ。

この時、花村えい子先生は介護されている老人の役。車椅子に乗っていたけれど、最後にすっくと立ち上がってボディコンの服を着ていたという演出。「私ずっと車椅子に座ってるの?」と花村先生が聞くので、台詞もないし、もう少し動いたり喋ったりした方がいいですか?と聞くといや、そうじゃなくて「きれいなドレスが着たいの」とのことだった。

萩尾先生と宝塚歌劇との関わり

萩尾先生は大阪の吹田市に住んでいた時期がありました。「大阪では日曜日に宝塚の舞台をテレビでやっていた。お母さんは厳しい人でテレビは許可制だったが、宝塚はお母さんが率先して観ていたので、いくつも観たのを覚えている。劇場は高校2年生の時に家族で行った。1967年「霧深きエルベのほとり」再演。あんなにスケールの大きい舞台を観たのは初めて。ばーっと舞台一面に船が出てくることに、ものすごいショックを受けた。本格的に見始めたのは一路真輝さんの頃で、男役の魅力にはまりました。どうしてああいう男の人がいないんだろうと思った。」

「マンガを描くときに宝塚の男性像が脳裏において何か影響を与えていますか?」という小池先生の質問に「美しいものはあそこまで美しくなるという美の追究という意味で影響を与えていると思います。」とのお答え。

小池先生が「11人いる!」NHKのドラマシリーズのお話を。「フロル役を山城はるかさんが演じた。大地真央さんとかと同期でたいへんきれいで優秀な男役だったが、二番手までやってやめてしまった。研4か5の時にフロルを演っている。まだ性別が定められていなくて先々男性にも女性にもなれる未分化だけれど見た目は女の子、という役を今テレビや舞台にすると宝塚に回ってこないような気がする。ジャニーズがやった方がウケるのではないかと思う。」

「このフロルの男性か女性かまだ定まっていないというところは宝塚の影響ではないですか?」との小池先生の質問に、萩尾先生は「宝塚の影響ではなくて手塚治虫先生の作品に「メトロポリス」のミッチイがいたから」とキッパリとお答えに。が、手塚先生がそういうキャラクターを描くのはずっと住んでいた宝塚の影響だと何がなんでも宝塚の影響に持ち込もうとする小池先生でした。

萩尾先生のSFについて

小池先生は手塚治虫、石森章太郎の絵柄のSFを読みたかったが、だんだんそういう絵柄のSFが少年マンガからなくなってしまった。吾妻ひでおさんや大友克洋さんの絵はとっつきやすいが、諸星大二郎先生と星野之宣先生のリアルでちょっと怖い絵はとっつきにくくなった。

あそび玉

「少年少女SFマンガ競作大全集」というアンソロジーの中に萩尾先生の「あそび玉」が入っていて、読んだらショックを受けた。少年がいろいろなポーズでいる状態とそれを見るアップの瞳。この目は未来を見ていて、また読者である私達を見返している。真剣に読んでるか?と言うような迫られる刃を突きつけられるような感じがした。これを描いたのは21歳の頃だそうですが、こんな21歳いないと思う。

この少年は手塚治虫、石森章太郎の丸顔で目がくりっとした「冒険をする少年」を受け継いでいる。「ポーの一族」は過去へのタイムスリップものでいろいろなところに行く。「タイムトンネル」という(アメリカのテレビ)番組が1960年代後半に放送されていたが、それらがブレンドされて少女マンガの窓口から出てくるのがすごい。夢やロマンと言いつつ現実的な方に少年マンガが行ってしまって、SFを使って未来と言いながら今に通じる人間の深淵を描き出そうとする人が少年マンガにはいなくなってしまって残念で、萩尾さんは正統な継承者だと思う。

小池先生のマンガ体験

小学校3年生の時に「鉄腕アトム」のアニメが始まって全部見た。それまで「ディズニー・アワー」という1時間番組があり、野球シーズンは月2回、秋から春まで毎週放送されていた。毎回ディズニーが挨拶するのだけれど、手塚治虫と虫プロがよく紹介されていた。手塚先生みたいになりたいと思い、図書館に子供向けの「漫画家入門」の本を読んでマンガを描こうとしたが、コマ割が難しくてできなかった。大きいコマ、小さいコマがあって先に計算して分けることが出来なくて、物語の展開を進める上でシナリオ的なものが先にかなり出来ていないとダメだということがわかった。自分が思ってる物語を展開するのは無理、こんな面倒くさいことは出来ないと。というわけで小池先生は漫画家にはなれませんでした。

萩尾先生によると「手塚先生の前と後ではマンガのコマ割の質がガラリと変わる。目線から目線に移っていくリズムがあって非常に音楽的。グっときたりハラハラしたり、その秘密はどこにあるのか、何度読んでもわからない。でも自分でマンガを描くときに、似たようなものを描いてみると結構近づける。」

小池先生はこのマンガをつくるということをこう解説してくれました。「流れを立体的に構成するのがものすごく時間がかかる。演出的な処理と言葉としての台本を両方同時に考えるので、そこをまとめていくのがしんどいけれど、おもしろい。それを一人で全部でまとめているのが、常人ではない。」

小池先生の好きな作品は「あぶない丘の上」だそうです。「なんで3巻でやめてしまったのか。続編を描いて欲しい。アズ兄ちゃんとか巫女とか出てきたりしておもしろい。2巻目は過去へのタイムスリップでもので、頼朝と義経が登場する。萩尾先生の作品で歴史的な実在人物が出てくるものはあまりない。最後泣かせる。「ポーの一族」の続編も読みたかったけれど、こちらの方が続編を読みたい。遊び心があって何が出てくるかわからないおもしろさがある。」

「ポーの一族」

宝塚版「ポーの一族」について

小池先生が「ポーの一族」を宝塚で上演するに至った経緯を説明してくれました。

「2018年宝塚歌劇団花組の上演の配役について。明日海りおはそれまでキャリアがあり、主演作がたくさんある。これまでやっていない役はどんなものがあったのか考えていた。ぽわんとしてかわいらしいところと、シャープでサイキックなところ、魔性なところと両面ある。これを生かせる役はないかと考えた。エリザベートのトートとやっていた。みりおだったらエドガーが出来るかもしれないと思った。宝塚で扮装写真を撮ることがあって「ポーの一族」は2~3回やっていたし、他の方でも「ポーの一族」をどうかという話はあった。でもそれまで候補にあがった人の中では一番エドガーに合っていると思った。かわいらしいけれど、妖しい色気、殺気立っているところがあり、年齢を超越している感がある。幼いところと老成したところとある。

その時の組構成のこともある。シーラは永遠の女性像で16歳で止まっている筈だが家族としては若いけれど母親で、もう少しなまめかしい妙齢の女性であること。アランについては、やんちゃっぽいというだけではいろいろな人がいるけれど、アランとエドガーは互いに意識し合い惹かれ合うには、明日海と柚香光という組み合わせしかない。40年以上宝塚にいて、そういう布陣はなかった。一人はピッタリだけど、他の人は合わないなとかはあって、初めて符合が合った。

また、「ポーの一族」の連載を再開する前から話があったけれど、このタイミング的にもよかった。少年役を男役が演るのは変とか、相手役の娘役と義理の親子であるとか、異論・反論が出るところかなと思ったが、この3人なら説得できるだろうと思った。また男爵を演った瀬戸かずや、クリフォードを演った鳳月杏、メリーベルを演った華優希もいた。33年もお待たせしてずっと心苦しかったけれど、いいタイミングだった。

「ポーの一族」をどこで上演するにせよ、いくつかのハードルがある。エドガーを演じる役者が14歳に見えるのか、ある種のハードルをもっている。宝塚ならでは特徴として、女性が男役を演ってるので、年齢が曖昧なのでカバーできる。そう思って入団したものの、なかなか難しい。じゃあエドガーを大人にしてしまえばという意見もあったが、原作者の萩尾先生が許してくれるかどうか、先生が許してくれても今度は読者が許さないだろう、といったこともあり。33年もかかったのは本当に申し訳なかった。

「ポーの一族」には名台詞が山ほどあったので極力生かしたいと思った。とても詩的でポエティックだったので、歌にしやすかった。

宝塚は1組80人ほどいるので、物語にいる人物を増やしていかなくてはならない。それをつなぐ何かが欲しいと思って、ブラックプールの場面をつくった。港町のホテルには人々が集ったりいろいろできる。降霊術については、1980年代は心霊現象とかが流行ってて雑誌『ムー』にマダム・ブラヴァツキーという有名な降霊術師が写真付きで載っていた。他に降霊術について、いろいろな団体があったことなど一頃自分に知識があった。そういうものとエドガーたちがすれ違ったらおもしろいかなと思った。」

小池先生が脚本のオリジナル部分について話すと、萩尾先生も「ブラヴァツキーが銃を渡す場面はすごいいいエピソードだった」とおっしゃって、それに対し「銀の玉の銃をどうやって用意したのか説明がつきにくいかなと思ってつくったエピソード」だったとお答えになりました。

司会の増田さんが「一族としての絆が宝塚版はすごくあった」と。小池先生は「それは歌の力、音楽の力です。太田健さんが作品の世界観に合った曲を書いてくれた。もともと「ポーの一族」を最初に読んだときから、村人に襲撃されるのは、ミュージカルとしてはおいしいシーンになると思っていた。絶対盛り上がると。」

原作「ポーの一族」の成り立ち

「「ポーの一族」は一番最初に思い浮かんだのは、エドガーには家族がいたけれど、全部消えてしまったのでアランを連れていくという「ポーの一族」の最初のお話。それで、どうしてエドガーはヴァンパネラになったのかと過去のことを探っていったら「メリーベルと銀のばら」の話が出来た。アランを吸血鬼の仲間にして、これからどこに行くのだろうと考えて「小鳥の巣」の話が出来た。最初はこの三つしかなかった。

不思議なことにキャラクターを描いたり喋らせたりしているうちに空白を埋める話が出来てくる。本人が喋ってるときもあり、突然出てくるときもある。編集(山本順也)さんに「長編描きたい。一つの話200枚くらい。三部作なんです」と言ったら「お前にはまだ早いよ」と言われて。じゃあ我慢していようと。「月16ページね」と言われて「番外編描いちゃえ」とちょっと吸血鬼を出して少年の初恋物語(「すき通った銀の髪」)を描きました。「ポーの村」「グレンスミスの日記」と立て続けに描いたら、さすがに山本さんが呆れて「しょうがないから描かせてやるよ」と。それで始まったんです。嬉しかったです。長編なんか描いたことがなかったので、山本さんは心配だったんだと思います。」

萩尾先生の絵が地味?

萩尾先生がこの長編をすんなり描かせてもらえなかった原因の一つに絵柄を挙げています。「基本、私絵柄が地味だから。池田先生のアニバーサリーブックに「ベルサイユのばら」のジローデルのエピソードを描かせてもらったんです。2ページ理代子先生の絵を真似をして一生懸命描いたんですが、地味なんです。」

ここで小池先生が「地味ですか?」と「確かにあの頃の…」と突っ込んでいました。萩尾先生は当時の少女マンガ雑誌の中では確かに地味で、巻末の方に位置することが多い。小池先生は「地味じゃなくてテイストの問題。当時少女マンガは大人が読むものなかった。小学生にもわかるようにと簡単だったり、わかりやすい、かわいいものだったりする。衣装も歴史的に考証されたのでなく、ディズニー的に花がついているドレス。つかみやすいけれど、華やかさはまた違う。子供でも萩尾先生の絵はわかる子はわかると思う。」

メリーベルの消滅

「ポーの一族」よりメリーベルの消滅

萩尾先生:これはメリーベルの記憶をたどっている。ポーの村にお兄さんと一緒にいた。老ハンナに育てられた。初恋のユーシス。そういったものが死ぬ前に現れて、最後に消えていく。バランスよくやるために1ページの半分くらいまでコマ割の位置を計算します。ネームのときはもう少し大雑把に考えている。

小池先生:斜め上からの水滴を描いて水の中に沈んでいく。一方で泡が出ている。沈むことと上に行くことが共存している。老ハンナは老人で、言わば老醜をさらしている絵。それと薔薇の花が一コマに入ることで「美と醜」「老いと若さ」という対極にあるものを共存させている。結果として老いや醜さを越えていく。一方で薔薇も単なるきれいなものとは言えなくなっている。その絶妙なバランスに見とれてしまう。

萩尾先生:黒い背景のはメリーベルがだんだん死んでいくところだから。過去のイメージは白っぽくしてる。遠い思い出とともに水の中に全部入れちゃう。この絵がいきなり出てきたら、読者はこの人たちは何なんだ、見たことがない、と思うでしょう。

感情を表現する

「ポーの一族」よりエドガーが真っ暗な背景の中雨の音を聞いている

萩尾先生は感情をどうやって表現するのか、という質問が司会より出されました。
萩尾先生:感情をつかまえて頭の中すっかりひたって、それから画面に出す。頭にないものは画面に出ない。このページは単行本でちょうどこのページが余った。シーラが刺された前後のページをつなぐものとして入れた。あまり邪魔にならなくて。2コマにするとリズムが乱れるので雨の音を聞いているだけにしようと。連載ではなかった。連載でこんな大きなコマ使ったら大変。

ミュージカルゴシック「ポーの一族」

再演のミュージカルゴシック「ポーの一族」は明日海さん以外は男性が男性を演じることになったので、それによる変化はあったのかどうかという質問が司会から出ました。

小池先生:「11人いる!」は男性になるか女性になるかまだ決まってない人が登場したり、「百億の昼と千億の夜」で阿修羅王は少女だけど少年性がある。宝塚は女性だけ、歌舞伎は男性だけで芝居をつくっていく。普通の芝居は男女がそれぞれの役割を担って演じる。マンガの中にある中性的なものを演劇でも生かせることはできるのではないか。「ポーの一族」のもっている精神性があればできる。

男性の役だから男性がやる、女性の役だから女性がやらなくてはならない、ということはない。少年であることを利用をすると、男性の中に入って男の役を演るのなら、大きくてたくましい女性がやらなくてはならないとか。女性の中に入って女性を演るのなら、小柄で華奢でかわいい男性でなくてはならないとか。そこに類似しているから演らせるのではなく、役の中身を演じることから適任者を選ぶなら、明日海のエドガーは男性達の中に入っても男性として成立させられると思った。ちょっとピーターパンっぽい。ピーターパンは海外でも女性が演じることが多い。明日海さんご本にに伺ったところやってみたいとのことで進めた。

むしろアランの人選の方が大変だった。女性っぽいわけでなく、華奢である必要はあるかもしれないけれど、若くないのに少年ぽい男性はいっぱいいる。また、中学生くらいのジャニーズの子を連れてくれば「アランだよ」と言えるかもしれないけれど、それだと明日海さんとのバランスはとれない。

アランは反抗的で悩みや葛藤があり、それがエドガーと出会うことで痛みが増す部分と痛みがクリヤーになっていく部分とがある。アドレナリンが出るというか、イヤだとか逃げたいとかだけでなく、それを見ていこうとするエネルギーを得るように感じた。千葉さんが最初の本読みをした時に、かなりテンションの高い強い演技をした。明日海さんもそうだが、たいへんクレバーな方なので、理解して演ってくれたと思う。

萩尾先生:男の人が入るとこういう舞台になるんだなと。宝塚版と微妙に違っていておもしろかった。宝塚版は華やかな世界に入っていく感じ。男女混合版はちょっと現実を中に入れながらファンタジーの中に入っていく。見応えがあり、それぞれにおもしろかった。

小池先生:宝塚版は宝塚が枠組みがすごいので、どんな題材も消化していける。でも男女混合になってしまうと“原寸”になってしまう。見る人のイマジネーションをうまく広げることが出来るのかは難しい。そこは作品のもつ力と「エドガー=明日海りお」というところで引っ張っていけたんだと思う。

萩尾先生:宝塚版は宝塚の役者が出てるので安心して見られる。男女混合についてはいろんな方がいて、歌舞伎役者、舞台俳優がいたり、その役者の背景が透けて見えたりして、いろんなモザイクが見えておもしろかった。

小池先生:宝塚のOGも何人か入ってる。涼風真世さんが老ハンナとブラヴァツキーを演じてくれて、すごく迫力があった。開き直って老女を演じてくれた。昔はフェアリータイプと呼ばれていたけど、「昔妖精、今妖怪」を自分のキャッチフレーズにしていた。(故)ブラヴァツキーが天からパワーをくれたのかもしれないと思った。

まとめ

宝塚の魅力とは?

「宝塚歌劇で女性が男性を演じることをどう思うか」という質問に萩尾先生は「歌舞伎も女形が究極の女性を演じる、女より女らしい。宝塚歌劇の男役はどこにもいない男の人。男の人より男らしい。「グリーン&ブラックス」(宝塚男役の極意)という番組でミュージカル俳優の井上芳雄さんが宝塚の人を呼んでアドバイスを受けている。帽子のかぶり方とか、階段を上がっていくところ、座り方とか、井上さんの反応がいちいちおもしろい。宝塚はどこにもいない理想の男性像を見ることが見ることができる。」

コロナ禍でのエンターテイメントのあり方

小池先生:コロナにかかった後、咳が止まらない人が多い。治って舞台に復帰させたくても、歌ったときに咳き込むとなると、舞台に立たせられない。お客さんの前でマスクをしないで演じてるので難しい。何公演つぶれたかわからないけれど、心が痛む。宝塚の場合いつか退団していくので限られた時間を過ごしているから、損なわれてしまうことがすごくかわいそう。

萩尾先生:アシスタントの数を減らしている。一部屋に3人詰め込んで寝てもらったりしていたけど、今は一部屋に1人。部屋が足りないときは駅前のビジネスホテルに入ってもらったりしている。

エンターテイメントのもつ力について

萩尾先生:日常だけでは生きていけない。絶対エンターテイメントは欲しい。

小池先生:10年くらい前にパソコンが普及し始めたとき、学者が“これから世の中は在宅で仕事をする人が増える”と言っていた。その結果、人が集まることが特別なことになっていく。何か活動をするためにあえて集まるようになる。今、テレビを観る以上に映像・動画を観る機会がものすごく増えている。配信はおもしろいけれど、実演している同じ空間の中で演っている共有感がある。

萩尾先生:息、風、温度を共有することは、配信とはまったく違う。生きたものと接触する体験は何ものも替えられない。

今取り組んでいる作品について

小池先生:今、東京で「グレート・ギャツビー」を上演中だが、この先(上演が)どうなるかわからない。今、稽古をしているのは2年半前に中止になった、花總まりさんと愛希れいかさんが演じている「エリザベート」。涼風さんだけではなく、花總さんも「妖怪まりこ」って呼んでるが、本当に変わらない。確かに愛希さんと比べた時にはだいぶお姉さんという感じはするが、内側から出てくるものは変わらない。舞台の上で演じている彼女の生彩は変わらない。宙組「カジノ・ロワイヤル」はコマ割を考えるのがこれから。近年のハイテク度が増している「007」ではなく、宝塚の中にあるスイーツな「007」を目指す。

萩尾先生:今年と来年、アランが復活するまでを「青のパンドラ」で描こうと思う。「血の神」という壺がどこからきたのかという話がSFっぽくなる。地球にきた宇宙人が壺の中に入って過ごすという話を昔考えたことがあり、アランをどうやって助けようかと考えたら、その宇宙人の力を借りようかと思ってる。

最後に、萩尾先生は小池先生と会場の皆さんにお礼をおっしゃって、退場されました。

会場から見た風景
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